私たちは、朝起きて、顔を洗い、食事をして仕事(家事)をして
家に帰り、夕飯を食べ、そして寝る、多少の違いはあれ、日々この繰り返しをしています。
そんな日常に時には煩わしさを感じながら…
禅の大家、鈴木大拙老師の「禅」という本の中で書かれていることです。
「昔の中国に、ある仏教の僧侶がいました。
その僧侶は若く、修行中の身でしたが自分の師にこう質問しました。
“我々は毎日着物を着て、食事をとらなければなりません。
ですがどうしたらこのようなことから逃れられるのでしょうか?”
おそらく若い僧侶は、日々の生活で
毎日続けてやらなければならないことを煩わしく思って
そのように質問したのでしょう。
その質問に対して、師はこう答えました。
“我々は着る 我々は食らう” と。
師の答えの意味は
自分たち人間は、有限な存在である。
時間と空間を離れて生きることはできない。
自分たちがこの世に生きる者であるかぎり、
生きる煩わしさから逃れることはできない。
生きる煩わしさから離れて、悟ることはない。
もし、寒い中で服を着なければ、
腹が減っても食べたり飲んだりしなければ、
おまえは死んでしまうだろう。
であるならば、衣服を着て、飲みかつ食べなさい。
抽象的な中でいきなり悟ろうとせず、
そうした具体的な生活の中に、
自由になる悟りの道を求めなさい。」
私たちは、日々の生活の中で
生きる煩わしさを感じ、疲れ、
そんな中でいっきに幸せになる方法、道を求めたがる
傾向があります。
師の答えは、そうした我々への戒めであり、真理を教えてくれます。
本当の幸せは、日々の生活の一歩一歩の地道な歩みの中でしか得られない、
本物の悟りは、日々の瞑想の実践の中でしか得られない、
ということを示唆してくれてると思います。
この言葉を知ったのは、ゴルフのティーチングプロの
古賀公治さんのブログからです。
「生徒さんからよく聞かれます、我々は日々、上達のためにゴルフの
練習をしなければなりません。どうしたらこのようなことから逃れて
短期間で上手になれる方法は?短時間の練習で上手になるには?と
これに対する私の答えは
我々はクラブを振る。我々はボールを打つ。
本当の学びとはいうのは
この世の中でなすべきことをなしていることの中でしか
得ることができないのだと…。」
生きることの意味を
考えさせてくれる言葉ですね。